主要政策
新時代の、扉をあける。
- くらしを守る物価高への対応
- 物価高の中で生活費の高騰に苦しむ方々を支援し、安定した暮らしを支えます。
- 経済のダイナミズムの回復
- 「出る杭を伸ばす」「失敗を許容する」「誰もが再チャレンジできる」、寛容の精神とダイナミズムを日本社会に取り戻します。
- 令和の政治改革
- 政治の信頼がなければ、政策の推進力も上がりません。政治の不透明なおカネの流れを断ち切ります。長年取り組んできた国会改革にも引き続き取り組みます。
- 聖域なき規制改革
- ライドシェアの解禁を始めとして、これまで日本でなかなか手がつかなかった規制改革を生活者目線で、柔軟に多様な選択が可能な制度の整備を図ります。
- 人生の選択肢の拡大
- 誰もが自分らしい生き方が出来る国を実現するため、人生の選択肢を増やす政策を推進します。
- 経済・社会の強靱化と地方創生
- 福島復興は、政治家としての原点。引き続き福島復興を推進します。また、能登半島地震、豪雨災害からの復旧・復興の加速を支援します。
- 社会保障改革
- 現役世代の負担を抑制し、年齢や立場に関係なく、元気に活躍する人を増やし、「支えられる側」から「支える側」にまわる人を応援する仕組みづくりを行います。
- 外交・防衛力の強化
- 戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に対応し、日本の国益を守るため、外交・防衛力の強化を推進します。
- 憲法改正
- 新しい日本を創る上で、憲法改正のための国民投票の実現に挑みます。自衛隊の明記、緊急事態対応、合区解消、教育充実の4項目を最優先に取り組みます。
最新の政策や取り組み
最新の政策や取り組みは、こちらの『進次郎通信』や党機関紙『自由民主』をダウンロードしてご覧ください。

プロフィール
小泉進次郎衆議院議員(神奈川11区)
1981年 神奈川県横須賀市生まれ。関東学院大学経済学部卒業後、2006年米国コロンビア大学大学院政治学部修士号取得。米国戦略国際問題研究所(CSIS)研究員、衆議院議員小泉純一郎の秘書を務めた後、2009年8月、衆議院議員に初当選し、現在6期目。家族は妻と二人の子ども。
誕生日 | 1981年4月14日 |
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血液型 | AB型 |
趣味 | 野球、サーフィン、映画、文楽、落語 |
尊敬する人物 | ジョン・F・ケネディ |
好きな言葉 | 「有志有道」 |
長所 | 最後まで諦めないところ |
主な経歴
- 2006年6月
- 米国戦略国際問題研究所(CSIS)研究員
- 2007年9月
- 衆議院議員小泉純一郎秘書
- 2008年10月
- 自民党神奈川県第11選挙区支部長
- 2009年8月
- 衆議院議員 初当選
- 2011年10月
- 自民党 青年局長
- 2013年9月
- 内閣府大臣政務官 兼 復興大臣政務官
- 2015年10月
- 自民党 農林部会長
- 2017年8月
- 自民党 筆頭副幹事長
- 2018年10月
- 自民党 厚生労働部会長
- 2019年9月
- 環境大臣 兼 内閣府特命担当大臣(原子力防災)
- 2020年9月
- 環境大臣 兼 内閣府特命担当大臣(原子力防災)再任
- 2021年3月
- 気候変動担当大臣 兼務
- 2021年11月
- 自民党 総務会長代理
- 2022年4月
- 自民党 神奈川県連会長(現職)
- 2022年9月
- 自民党 国会対策委員会 副委員長
- 2023年10月
- 衆議院 安全保障委員会 筆頭理事
- 2024年1月
- 衆議院 安全保障委員長
- 2024年9月
- 自民党 選挙対策委員長
- 2024年11月
- 衆議院 経済産業委員会 筆頭理事(現職)
- 2024年11月
- 自民党 水産総合調査会 会長(現職)
- 2024年11月
- 自民党 政治改革本部 事務局長(現職)
- 2025年1月
- 自民党 新しい資本主義実行本部 事務局長(現職)
エピソード
誕生〜幼稚園時代
- 1981年4月14日、神奈川県横須賀市生まれ。
- お兄ちゃん子で、物心ついた頃からずっと兄を追いかけていた。当時、進次郎は猫が怖かったため、兄は「口笛を吹くと猫が来る」と進次郎に信じ込ませ、口笛を吹くことで進次郎を追い払っていた。兄について遊びに行っていた友達の家から、泣いて逃げ帰った思い出がある。
- 幼稚園時代、進次郎が描いたクラスメートの似顔絵が表彰され、横浜で展示された。ご褒美に聖闘士星矢のフィギュアを買ってもらったのが嬉しかった。現在は絵は苦手。
- 性格は、勝ち気で負けず嫌い。3歳上のおにい(兄)についていくためにがんばるという気持ちも強かった。
- 初恋は、幼稚園の先生。
- 将来の夢は、白バイの運転手。
- 自宅に一時期イギリス人の学生がホームステイしていた。初めての海外との交流。
- 父がよく絵本を読んでくれた。『一杯のかけそば』を読みながら父が泣いていたのを覚えている。父が泣いていることに気づいてはいけないと思い寝ているふりをした。
- 父が好きな『ファーブル昆虫記』『シートン動物記』もよく読んでもらった。その影響で今でも動物のドキュメンタリー等が好き。
- 孝太郎と進次郎だったら、進次郎の方が父親に性格が似ている。(進次郎親戚談)
小学校時代
- 父の仕事は、よく理解していなかった。たまにテレビに出ているという印象だった。忙しい中でもキャッチボールをするためだけに家に帰ってきてくれたことが嬉しかった。
- ゲームは、RPGのドラクエ、FF(ファイナルファンタジー)をよくやった。
- 漫画は、『ドラゴンボール』『スラムダンク』等を『ジャンプ』でよく読んでいた。野球の漫画『県立海空高校野球部員山下たろーくん』が大好きだった。『ドカベン』も好き。
- 印象に残っている映画は、ジャッキー・チェンのシリーズ、『ドラえもん』『フィールド・オブ・ドリームス』『ネバーエンディング・ストーリー』。
- 豚のしょうが焼きが大好物。今でも初めて入った店のメニューで豚のしょうが焼きを見つけたら必ず注文するくらい大好き。
- フルーツが好きで、スイカはカブトムシかっていうくらい食べた。
- 家族旅行で毎年スキーをしに福島に行っていた。雪、スキーといえば福島というイメージ。
- 食事の時は、兄とおかずの取り合いになった。取られないように好きなものから食べるようになった。
- 勉強は、全般的に得意だった。いちばん好きだったのは体育。特に球技が大好きだった。
- 剣道を習っていたが、頭を叩かれるのが苦手だった。
- 地元の野球クラブで、兄はエースピッチャー、進次郎はキャッチャーだった。練習中に兄弟げんかをして監督になだめられることもあった。
- 兄弟げんかは激しかったが、父は「子どもは、けんかをするのが当たり前」という方針のもと、けんかしていても放置だった。
- 父から「勉強しろ」とは一度も言われたことがなかったが、テーブルマナーに関してはうるさく言われた。
- 夕飯にアジの干物が出た時に嫌だと駄々をこねたら、父から「嫌なら食べるな」と言われて放っておかれた。わが家ではわがままは通用しないと痛感した。
- 学校の行事で国会見学に行った際、父が顔を出してくれたのが嬉しかった。
- プロ野球選手になるのが夢だった。
- 水泳を6年生まで続けた。水泳をしていたことが後に趣味になるサーフィンにつながった。
- 亀を飼っていた。名前は「ぽっくん」。漫画の『おぼっちゃまくん』に出てくる亀から名付けた。歩くのが速くて、庭を散歩させた時は見失うこともあった。
- 九官鳥も飼っていた。電話で家族みんなが「もしもし小泉です」というのを聞いているうちに、九官鳥もそのセリフを話すようになった。名前は「キューちゃん」。
- 不登校だった同級生がいて、1日だけ登校した際に「一緒にお昼を食べよう」と誘った。その同級生から、議員になってしばらくしてから、御礼の手紙が届いて驚いた。
中学校時代
- 父が厚生大臣に就任。しかし父とは仕事の話はせず、特に変化を感じることはなかった。
- 同級生から「親から小泉くんは大臣の子どもだから仲良くしておけと言われた」と聞いてあきれたことがある。
- 中学3年の夏休みに初めてのアルバイトとして新聞配達を経験。無遅刻無欠席で、休刊日以外は1ヶ月半休まずに続けた。働くことの大変さを実感。今でも新聞配達の人を見ると感謝の気持ちがわいてくる。初任給は定期預金にしておいた。
- 父からは、将来については特に何も言われなかったが、「日本のことを知ろうと思ったら、日本にいるだけじゃわからない」と言われていたのを覚えている。
- 三者面談の際、担任の先生から「進次郎くんにもっとリーダーシップを発揮してもらいたい」と言われたが、父は「私も父が政治家だったから進次郎の気持ちはよくわかります。何をやっても目立つので、できる限り目立たないようにしようと思っているんでしょう。進次郎はそれでいいと思います」と答えた。忙しくてなかなか家にいない父なのに、自分が考えていることをちゃんと理解してくれていて胸が熱くなった。
- 親に話せないことも兄弟同士では相談するように。兄との結束が強まり、兄弟げんかが減っていった。
- 中高一貫校だったので、兄の高校も同じ敷地内にあった。生意気だった進次郎に目をつけた先輩もいたが、兄の同級生たちがなだめてくれていた。兄に守られているという感覚があった。
- 中学時代もいちばん打ち込んだのは野球。厳しかった高校野球と比べると楽しく、のびのびと野球をしていた。キャプテンも経験。
- 勉強でいちばん得意なのは英語だった。
- 将来の夢は小学校の頃と変わらずプロ野球選手。原辰徳選手(現 読売巨人軍監督)の引退試合に涙した。
- 父と兄と3人で東京ドームによく野球を見に行った。
- ゲームもスポーツ系が好きだった。パワプロ(実況パワフルプロ野球)、ウイイレ(ウイニングイレブン)等。
- 漫画は『サンクチュアリ』『オデッセイ』が好きだった。
- 友達の影響でヒップホップにはまる。
高校時代
- 朝から晩まで野球ばっかり。朝7時からの朝練、放課後の練習、帰宅後の素振り、土日は練習試合という日々だった。
- 野球部にはウエイトトレーニングを専門とするコーチがいて、本格的なウエイトトレーニングをやっていた。ベンチプレスやスクワット等をかなりの量こなしていた。この時の経験が今の自分を支える体力の基礎になっている。選挙等で体力的に辛い時もあるが、高校野球の練習を思い出せばがんばれる。
- 副キャプテンを務めた高校3年生の時は、神奈川大会で春ベスト8、夏ベスト16という結果。以後、この野球部では、これ以上の成績が出た年はまだない。
- 父は、忙しい中でも野球の応援に来てくれていた。その父の思いが嬉しかった。
- 野球部の仲間とは今でも交流がある。あの時、怖かった監督は今ではすごく優しい。
- 大学でも野球を続けようか最後まで迷ったが、大学では野球を続けることはしなかった。
- 野球部の活動がなくなってからは、英会話の勉強に力を入れるようになった。
- 政治の話は極力避けていた。政治について周りに話すと、自分では意図しない内容で伝わってしまうと思い、慎重になっていた。
- 犬を飼いはじめたのは高校生の頃。名前は「ベル」。(※ベルは2013年に亡くなっている)
- お兄さん子だった。お兄さんの方は進次郎に対してわりと強気でそっけない態度だったが、進次郎は素直にお兄さんの言うことを聞いていた印象。(進次郎友人談)
大学時代
- 大学2年の時、父が出た自民党総裁選挙の手伝いをした。人で埋め尽くされた横浜駅西口での街頭演説の熱狂。あの景色は一生忘れることはないと思う。
- 総裁選では、父の党内での派閥の面を考えると勝てる見込みはなかった。しかし全国の党員からの支持で勝利。政治は国民が変えていくものなんだなと実感した。父は永田町の論理だったら負けていた。
- 大学2年生のはじめに父が総理に就任。家族も親戚も、総理になるとは思っていなかったので驚いた。自分が政治家になってみて改めて思うが、小泉純一郎という政治家を近くで見られたということは、無形の財産になっている。
- 兄が俳優になったのも大学2年生の時だった。兄は俳優を目指していることを家族には誰にも言わず、事後報告だった。俳優になりたいなんて全く知らなかったので、本当にびっくりした。
- 大学時代はサーフィンにはまった。雪が降ってもサーフィンをするくらい好きで、冬はポリタンクにお湯を入れて持って行っていた。
- 大学2年生の時、祖母が亡くなった。祖母はなぜかいつもコーラ味のグミをくれて、子どもの時はそれを楽しみにしていた。コーラ味のグミを見ると今でも祖母を思い出す。
- 大学時代の恩師は3人いて、全員英語の先生だった。先生たちをがっかりさせたくないという気持ちも英語をがんばる理由のひとつだった。
- 短期留学(ホームステイ)を3回経験した。大学のプログラムでのオーストラリア留学と、通っていた英会話学校経由でのオーストラリア留学。たまたまオーストラリアに縁があったが、天気もよく、人もフレンドリーで明るく、素晴らしい国だと感じた。
- 大学時代のアルバイトで、工場のラインで組立工をしたこともある。友達と一緒にはじめたが、友達はきついからとどんどん辞めていった。
- 長く続けたのはカフェバーでのアルバイト。バーカウンターからホールまで経験。がんばりが認められてアルバイト先から表彰されたこともあった。カフェバーでのアルバイトは、すごく楽しかった。お客さんともとても仲良くなった。
留学・アメリカ勤務時代
- はじめはコロンビア大学付属の英語学校に入った。英語レベルの判定試験では、10段階で中の下である4から5だった。10を取らないと大学院には入れないので、英文法や論文の書き方などを必死で勉強した。
- 英語学校時代、日本にいる時からいつか教わりたいと思っていたカーティス教授を訪ねた。そこでコロンビア大学院を受けてみたら、と勧められて、大学院を目指すように。英語学校を卒業し、コロンビア大学大学院の政治学部に入学した。
- 大学院では、授業ごとに読まないといけない本が何冊もあり、量が多くて大変だった。平均睡眠時間は3時間。限界に挑んでいるような日々で、常に全力のスピードで走っていた感じだったが、最大限自分を成長させられた機会でもあった。本当に大変だったので、住んでいたニューヨークを思い出すと今でもなんだか胸が苦しくなる。
- 落第しそうな授業もあったが、あきらめずなんとかがんばって卒業することができた。自分でも自信を持って、あの時は本当にがんばったなと言える。
- 大学院を卒業した後はシンクタンクで働きたいと思い、戦略国際問題研究所(CSIS)に就職した。
- 就職に伴い、ワシントンDCに移住した。ワシントンDCは高い建物が少なく、空が広くて開放感があり、のんびりした雰囲気だった。
- シンクタンクは、世界中から人が集まる非常に多様性のある環境だった。好奇心が強いので、関わっている案件に関係なくいろいろな部署の人と交流していた。仕事が終わった後も一緒に飲んだりして交流を深めた。
- 配属されたのは、日本部という日本政治や日米関係などを研究する部門だった。印象に残っている仕事は、日本・アメリカ・インドの三国間の関係に関するプロジェクト。インド出張では、ムンバイ、バンガロール、ニューデリーを一週間で周った。インドは、空港についた瞬間から、街の喧騒や、鳴り止まない車のクラクション等、言葉にはしがたいエネルギーを感じ、これが発展に向けてまっしぐらに進んでいる国か、と圧倒された。
- 仕事以外の活動として、いろいろな企業やNGO、政府組織などで働く人で集まったソフトボールチームに入っていた。ワシントン・モニュメントの近くや、モールとよばれる芝生が広がった場所でソフトボールをした。ワシントンDCでのいい思い出になった。
- 仕事を通じて、世界の中での日本を意識する視点が身についた。日本で関心を持たれていることと、世界で関心を持たれていることは一致しない。常にその視点を失わないように気をつけている。
- アメリカ生活3年目で日本に帰国した。もちろん3年で全てはわからないけれど、自分の中で戻るタイミングだと感じた。アメリカで学んだことを持ち帰って、そろそろ走りだす時だ、と。
秘書時代
- 日本に帰国してから父の秘書になった。秘書時代は、地元での活動が多く、父の代理で様々な業界団体や町内会・商店街などの会合に出席して挨拶する機会が多くあった。慣れないうちは何を話したらいいのかわからず、緊張と戸惑いの連続だった。
- 今のうちにいろいろ体験しておこうという思いから、二泊三日で自衛隊に体験入隊をした。一泊は海上自衛隊、もう一泊は陸上自衛隊。海上自衛隊では、防火訓練、着衣泳、短艇(カッター)訓練等を。陸上自衛隊では、戦闘訓練、野営、大楠山への行軍などを体験した。自衛隊の皆さんの日々の訓練の一端を体験したことで、厳しい国防の任にあたる皆さんに対する感謝と敬意の念を強く持った。
- 地元の農家では農業体験をした。大根やキャベツの収穫、トラクターの運転等をさせてもらった。その時にお世話になった農家の皆さんとは、今でも親しくさせていただいている。農家の皆さんの苦労を実感でき、生産者の考え方を学べた。
- 父が引退表明して以降は、次期選挙の候補予定者として本格的に活動をスタートし、自分の街頭演説をICレコーダーで録音し、毎回寝る前に聞いていた。また、事務所のスタッフに演説について来てもらって、率直なフィードバックを受けるようにしていた。世襲批判と自民党批判が重なり、厳しい見方にさらされる中、どうしたら演説を聞いてもらえるか、試行錯誤の日々だった。
- 街頭演説では、1人も聞いてくれる人がいない時や「世襲反対!」と叫ばれながら、ペットボトルを投げつけられた時もあった。
- 一回目の選挙では最後の最後まで当選する確信を持てなかった。
- 2009年8月、初当選を果たす。テレビで当確が出た時の率直な感想は、喜びではなかった。支えてくれた方々を裏切る結果ではなくてよかったという安堵感でいっぱいだった。

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講演・取材依頼の方は、下記より小泉進次郎のプロフィールPDF、画像をダウンロードしてお使いください。

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