小泉 進次郎(こいずみ・しんじろう)

誕生日…
1981年4月14日
血液型…
AB型

[経歴]

昭和63年4月
関東学院六浦小学校入学、
以来中学・高校・大学と関東学院で過ごす
平成16年3月
関東学院大学経済学部卒業
平成18年5月
米国コロンビア大学大学院政治学部修士号取得

[職歴]

平成18年6月
米国戦略国際問題研究所(CSIS)研究員
平成19年9月
衆議院議員小泉純一郎秘書
平成20年10月
自由民主党衆議院神奈川県第11選挙区支部長
平成21年9月
衆議院議員
平成25年9月
内閣府大臣政務官・復興大臣政務官

[自己紹介]

趣味…
野球、サーフィン、ゴルフ、読書、落語
尊敬する人物…
ジョン・F・ケネディ
好きな言葉…
「意志あるところに道はある」
長所…
ポジティブなところ
短所…
涙もろいところ

エピソード[誕生〜幼稚園時代]

  • 1981年4月14日、神奈川県横須賀市生まれ。
  • お兄ちゃん子で、物心ついた頃からずっと兄を追いかけていた。兄はそんな弟をうっとうしく思っていた。当時、進次郎は猫が怖かったため、兄は「口笛を吹くと猫が来る」と進次郎に信じ込ませ、口笛を吹くことで進次郎を追い払っていた。兄について遊びに行っていた友達の家から、泣いて逃げ帰った思い出がある。
  • 幼稚園時代、進次郎が描いたクラスメートの似顔絵が表彰され、横浜で展示された。ご褒美に聖闘士星矢のフィギュアを買ってもらったのが嬉しかった。現在は絵は苦手で、その時に才能を使いきった。
  • 性格は、勝ち気で負けず嫌い。3歳上のおにい(兄)についていくためにがんばるという気持ちも強かった。
  • 眉間にシワを寄せた険のある子だった。(進次郎親戚談)
  • 初恋は、幼稚園の先生。なぜ好きになったのかも、顔も覚えていないが、大好きだったことだけは覚えている。
  • 将来の夢は、白バイの運転手。乗り物が好きだった。
  • 自宅に一時期イギリス人の学生がホームステイしていた。初めての海外との交流。
  • 父がよく絵本を読んでくれた。『一杯のかけそば』を読みながら父が号泣していたのを覚えている。父が泣いていることに気づいてはいけないと思い寝ているふりをした。
  • 父が好きな『ファーブル昆虫記』『シートン動物記』もよく読んでもらった。その影響で今でも動物のドキュメンタリー等が好き。
  • お世話になったおじいさんが亡くなる直前、夢に出てきて「進次郎ちゃんにお別れを言わないといけない」と言った。
    そのことを家族に伝えたら驚かれた。
  • 孝太郎と進次郎だったら、進次郎の方が父親に性格が似ている。(進次郎親戚談)

エピソード[小学校時代]

  • 父の仕事は、よく理解していなかった。たまにテレビに出ているという印象だった。「忙しい中でもキャッチボールをするためだけに家に帰ってきてくれたことが嬉しかった」。
  • ゲームは、RPGのドラクエ、FF(ファイナルファンタジー)をよくやった。
  • 漫画は、『ドラゴンボール』『スラムダンク』等を『ジャンプ』でよく読んでいた。
    野球の漫画『県立海空高校野球部員山下たろーくん』が大好きだった。『ドカベン』も好き。
  • 印象に残っている映画は、ジャッキー・チェンのシリーズ、『ドラえもん』『フィールド・オブ・ドリームス』『ネバーエンディング・ストーリー』。
  • 豚のしょうが焼きが大好物。「今でも初めて入った店のメニューで豚のしょうが焼きを見つけたら必ず注文するくらい大好き」。
  • 煮込みハンバーグも好きだった。実家のハンバーグは焼いたものではなく、基本的にデミグラスソースの煮込み。
  • フルーツが好きで、「スイカはカブトムシかっていうくらい食べた」。
    また、みかんの食べ過ぎで肌が黄色くなり、病院に行ったことも。
  • 家族旅行で毎年スキーをしに福島に行っていた。
    雪、スキーといえば福島というイメージ。
    食事の時は、兄とおかずの取り合いになった。
    取られないように好きなものから食べるようになった。
  • 水泳、そろばん、ソフトボール、ピアノ等の習い事をしていた。兄がはじめたのを真似して進次郎もはじめて、兄は先に辞めるが進次郎は続けるというパターンが多かった。
  • 勉強は、全般的に得意だった。いちばん好きだったのは体育。
    特に球技が大好きだった。しかしマラソン大会は大嫌いだった。
  • 剣道道場に通っていたが、頭を叩かれるのが苦手だった。
    千葉県に合宿に行った時に、嫌で途中で泣いて帰り、そのまま辞めてしまったのを今でも後悔している。
  • 地元の野球クラブで、兄はエースピッチャー、進次郎はキャッチャーだった。練習中に兄弟げんかをして監督になだめられることもあった。
  • 兄弟げんかは激しかったが、父は「子どもは、けんかをするのが当たり前」という方針のもと、けんかしていても放置だった。
  • 父から「勉強しろ」とは一度も言われたことがなかったが、テーブルマナーに関してはうるさく言われた。
  • 夕飯にアジの干物が出た時に嫌だと駄々をこねたら、父から「嫌なら食べるな」と言われて放っておかれた。「わが家ではわがままは通用しない」と痛感した。
  • 学校の行事で国会見学に行った際、父が顔を出してくれたのが嬉しかった。
  • プロ野球選手になるのが夢だった。
  • 水泳を6年生まで続けた。水泳をしていたことが後に趣味になるサーフィンにつながった。
  • 観音崎公園、三春公園でよくキャッチボール等をして遊んだ。
  • 走水の海水浴場、大磯ロングビーチにも家族でよく行った。
  • 亀を飼っていた。名前は「ぽっくん」。漫画の『おぼっちゃまくん』で、主人公が自分のことを「ぽっくん」と呼んでいたことが由来。歩くのが速くて、庭を散歩させた時は見失うこともあった。
  • 九官鳥も飼っていた。電話で家族みんなが「もしもし小泉です」というのを聞いているうちに、九官鳥もそのセリフを話すようになった。名前は「キューちゃん」。
  • 不登校だった同級生がいて、1日だけ登校した際に「一緒にお昼を食べよう」と誘った。「その同級生から、最近、御礼の手紙が届いて驚いた」。

エピソード[中学時代]

  • 父が厚生大臣に就任。しかし父とは仕事の話はせず、特に変化を感じることはなかった。
  • 同級生から「親から小泉くんは大臣の子どもだから仲良くしておけと言われた」と聞いてあきれたことがある。
  • 中学3年の夏休みに初めてのアルバイトとして新聞配達を経験。
    無遅刻無欠席で、休刊日以外は1ヶ月半休まずに続けた。働くことの大変さを実感。「今でも新聞配達の人を見ると感謝の気持ちが浮かんでくる」。初任給は定期預金にしておいた。
  • 反抗期もあった。家族や親戚と接するのを面倒くさく感じて、帰宅してもあまり口をきかない時期があった。
  • 父からは、将来については特に何も言われなかったが、「日本のことを知ろうと思ったら、日本にいるだけじゃわからない」と言われていたのを覚えている。
  • 三者面談の際、担任の先生から「進次郎くんにもっとリーダーシップを発揮してもらいたい」と言われたが、父は「私も父が政治家だったから進次郎の気持ちはよくわかります。何をやっても目立つので、できる限り目立たないようにしようと思っているんでしょう。進次郎はそれでいいと思います」と答えた。「忙しくてなかなか家にいない父なのに、自分が考えていることをちゃんと理解してくれていて胸が熱くなった」。
  • 親に話せないことも兄弟同士では相談するように。
    兄との結束が強まり、兄弟げんかが減っていった。
  • 中高一貫校だったので、兄の高校も同じ敷地内にあった。生意気だった進次郎に目をつけた先輩もいたが、兄の同級生たちがなだめてくれていた。「兄に守られているという感覚があった」。
  • 兄の友達と一緒に遊ぶことも多かった。
    「同級生といるよりも、先輩たちといた方が落ち着く感じだった」。
  • クラスではどちらかというと中心的な存在だった。
    先生に口答えすることもあり、生意気な生徒だった。
  • 中学時代もいちばん打ち込んだのは野球。
    厳しかった高校野球と比べると楽しく、のびのびと野球をしていた。
    キャプテンも経験。
  • 勉強は特に問題なくできていたが、数学は苦手だった。
    すごく熱心な数学の先生がいて、その先生のために数学をがんばったが、あまり点数が取れず申し訳なく思った。いちばん得意なのは英語だった。
  • 将来の夢は小学校の頃と変わらずプロ野球選手。
    原辰徳選手(現 読売巨人軍監督)の引退試合に涙した。
  • 父と兄と3人で東京ドームによく野球を見に行った。
  • ゲームもスポーツ系が好きだった。パワプロ(実況パワフルプロ野球)、ウイイレ(ウイニングイレブン)等。
  • 漫画は『サンクチュアリ』『オデッセイ』が好きだった。
  • 友達の影響でヒップホップにはまる。
  • 家庭教師の影響でちょっとだけギターを練習したことも。

エピソード[高校時代]

  • 朝から晩まで野球ばっかりやっていた「野球バカ」だった。
    朝7時からの朝練、放課後の練習、帰宅後の素振り、土日は練習試合という日々。
  • 野球部にはウエイトトレーニングを専門とするコーチがいて、本格的なウエイトトレーニングをやっていた。ベンチプレスやスクワット等をかなりの量こなしていた。「この時の経験が今の自分を支える体力の基礎になっている。選挙等で体力的に辛い時もあるが、高校野球の練習を思い出せばがんばれる」。
  • 野球にすべてをかけて燃え尽きた経験が今も生きている。
    ひとつのことに集中しすべてを捧げるというスタイルが、高校野球の経験で身についた。「野球なくしてその後の人生はない」。
  • 副キャプテンを務めた高校3年生の時は、神奈川大会で春ベスト8、夏ベスト16という結果。
    以後、この野球部では、これ以上の成績が出た年はまだない。
  • 父は、忙しい中でも野球の応援に来てくれていた。「その父の思いが嬉しかった」。
  • 野球部の仲間とはOB会で今でも交流がある。
    あの時、怖かった監督は今ではすごく優しい。
  • 大学でも野球を続けようか最後まで迷ったが、
    大学の野球部は県下でもレベルが高く、自分の力量では無理だと悟り、大学では野球を続けることはしなかった。
  • 野球部の活動がなくなってからは、
    英会話の勉強に力を入れるようになった。
  • 政治の話は極力避けていた。政治について周りに話すと、自分では意図しない内容で伝わってしまうと思い、慎重になっていた。
  • 音楽は、中学に引き続きヒップホップを聞いていた。
  • 犬を飼いはじめたのは高校生の頃。
    名前は「ベル」。(※ベルは2013年に亡くなっている)
  • お兄さん子だった。お兄さんの方は進次郎に対してわりと強気でそっけない態度だったが、進次郎は素直にお兄さんの言うことを聞いていた印象。(進次郎友人談)

エピソード[大学時代]

  • 大学2年の時、父が出た自民党総裁選挙の手伝いをした。
    「人で埋め尽くされた横浜駅西口での街頭演説の熱狂。
    あの景色は一生忘れることはないと思う」。
  • 総裁選では、父は党内での派閥の面を考えると勝てる見込みはなかった。しかし全国の党員からの支持で勝利。「政治は国民が変えていくものなんだなと実感した。父は永田町の論理だったら負けていた」。
  • 大学2年生のはじめに父が総理に就任。家族も親戚も、総理になるとは思っていなかったので驚いた。「自分が政治家になってみて改めて思うが、小泉純一郎という政治家の総理経験当時を近くで見られたということは、無形の財産になっている」。
  • 兄が俳優になったのも大学2年生の時だった。兄は俳優を目指していることを家族には誰にも言わず、事後報告だった。「俳優になりたいなんて全く知らなかったので、デビューした時は本当にびっくりした」。
  • 父の総理就任と、兄の芸能界入りが同時に起こり、環境の激変を経験。「寂しいという気持ちと戸惑い。自分たちは変わっていないのに、周りの目が変わった」。
  • 総理の息子という立場になり、大学にマスコミが来たり、いろいろな人が近づいてくるようになった。そんな経験から、昔からの友達をより大切に思うようになった。大学のサークルにも入らなかった。
  • 大学時代はサーフィンにはまった。雪が降ってもサーフィンをするくらい好きで、冬はポリタンクにお湯を入れて持って行って、サーフィンが終わったら浴びて寒さをしのいでいた。
  • 大学2年生の時、祖母が亡くなった。「祖母はなぜかいつもコーラ味のグミをくれて、子どもの時はそれを楽しみにしていた。コーラ味のグミを見ると今でも祖母を思い出す」。
  • 大学時代の恩師は3人いて、全員英語の先生だった。情熱を持ってまっすぐ学生と向き合ってくれる先生。忙しい中でも学生一人ひとりをちゃんと見てくれていて学生みんなから信頼されている先生。また、ユーモアがありながらも厳しいこともしっかり言ってくれる先生。先生たちをがっかりさせたくないという気持ちも英語をがんばる理由のひとつだった。
  • 短期留学(ホームステイ)を3回経験した。大学のプログラムでのオーストラリア留学が1回。通っていた英会話学校経由でのオーストラリア留学が2回。「たまたまオーストラリアに縁があったが、天気もよく、人もフレンドリーで明るく、素晴らしい国だと感じた」。
  • 大学時代のアルバイトで、工場のラインで組立工をしたこともある。友達と一緒にはじめたが、友達はきついからとどんどん辞めていった。
  • 長く続けたのはカフェバーでのアルバイト。バーカウンターからホールまで経験。がんばりが認められてアルバイト先から表彰されたこともあった。「カフェバーでのアルバイトは、すごく楽しかった。お客さんともとても仲良くなった」。

エピソード[留学時代]

  • はじめはコロンビア大学付属の英語学校に入った。「英語レベルの判定試験では、10段階で中の下である4から5だった。10を取らないと大学院には入れないので、英文法や論文の書き方などを必死で勉強した」。
  • アメリカに渡る際、英語学校の後のことは具体的には決めていなかった。まず数年は英語をしっかり勉強しようと思っていた。
  • 英語学校時代、日本にいる時からいつか教わりたいと思っていたカーティス教授を訪ねた。そこでコロンビア大学院を受けてみたら、と勧められて、大学院を目指すようになった。
  • 英語学校を卒業し、コロンビア大学大学院の政治学部に入学した。
  • 大学院時代はニューヨークに住んでいた。「東京と同じ大都市だけど、東京にはない独特のみなぎるパワーを感じる街だった」。
  • 大学院では、授業ごとに読まないといけない本が何冊もあり、量が多くて大変だった。平均睡眠時間は3時間。「限界に挑んでいるような日々で、常に全力のスピードで走っていた感じだったが、最大限自分を成長させられた機会でもあった。本当に大変だったので、ニューヨークを思い出すと今でもなんだか胸が苦しくなる」。
  • 落第しそうな授業もあったが、あきらめずなんとかがんばって卒業することができた。「自分でも自信を持って、あの時は本当にがんばったなと言える」。
  • 「大学の寮に住んでいたので、様々な国から来ている学生の生活を垣間見てカルチャーショックを受けた」。
  • コロンビア大学院時代の友達とは今も連絡を取り合っている。日本を訪れた友達と会うこともある。
  • 大学院を卒業した後はシンクタンクで働きたいと思い、戦略国際問題研究所(CSIS)に就職した。
  • 就職に伴い、ワシントンDCに移住した。 「ワシントンDCは高い建物が少なく、空が広くて開放感があり、のんびりした雰囲気だった。住むならニューヨークよりもワシントンDCの方が自分には合っている」。
  • シンクタンクは、世界中から人が集まる非常に多様性のある環境だった。「好奇心が強いので、関わっている案件に関係なくいろいろな部署の人と交流していた。仕事が終わった後も一緒に飲んだりした」。
  • 「アメリカの首都ワシントンDCという政治都市で、シンクタンクという業界にいたことから学んだことは大きく、今でも生きている」。
  • 配属されたのは、日本部という日本政治や日米関係などを研究する部門だった。印象に残っている仕事は、日本・アメリカ・インドの三国間の関係に関するプロジェクト。インド出張では、ムンバイ、バンガロール、ニューデリーを一週間で周った。「インドでは、空港についた瞬間から、街の喧騒や、鳴り止まない車のクラクション等、言葉にはしがたいエネルギーを感じ、これが発展に向けてまっしぐらに進んでいる国か、と圧倒された」。
  • スターバックスのテラス席で、コーヒーを飲みながら読書をする時間が気分転換や息抜きになった。「またいつかテラス席があるカフェで読書をしながらゆっくりコーヒーを飲みたい」。
  • アメリカでは、ピザとステーキが好きだった。「ピザは、一枚のスライスで売っていて簡単に買えるのがよかった。日本でもそんな売り方をしてほしい」。
  • 仕事では、通訳代わりで日本に出張することもあった。また、仕事以外でも、ワシントンDCに駐在している日本人と交流があり、当時お世話になった方々とは今でも繋がりがある。
  • 仕事以外の活動として、いろいろな企業やNGO、政府組織などで働く人で集まったソフトボールチームに入っていた。「ワシントン・モニュメントの近くや、モールとよばれる芝生が広がった場所でソフトボールをした。ワシントンDCでのいい思い出になった」。
  • 「仕事を通じて、世界の中での日本を意識する視点が身についた。日本で関心を持たれていることと、世界で関心を持たれていることは一致しない。常にその視点を失わないように気をつけている」。
  • アメリカ生活3年目で日本に帰国した。「もちろん3年で世界はわからないけれど、自分の中で戻るタイミングだと感じた。アメリカで学んだことを持ち帰って、そろそろ走りだす時だ、と」。

エピソード[秘書時代]

  • 日本に帰国してから父の秘書になった。秘書時代は、地元での活動が多く、父の代理で様々な業界団体や町内会・商店街などの会合に出席して挨拶する機会が多くあった。「慣れないうちは何を話したらいいのかわからず、緊張と戸惑いの連続だった」。
  • 「帰国当時は、時間の流れを遅く感じて、アメリカでいかに必死に生活していたのかを実感した。アメリカに行く前までの努力の100%は100%ではなく、まだまだ努力の余地があるということをアメリカ生活から学んだ。また、当たり前だけど、簡単に言葉が通じることはすごいことだと思った。アメリカだと日常生活のちょっとしたことでも苦労したけれど、日本ではわからないことがあっても聞けばすぐにわかる」。
  • 今のうちにいろいろ体験しておこうという思いから、二泊三日で自衛隊に体験入隊をした。一泊は海上自衛隊、もう一泊は陸上自衛隊。海上自衛隊では、防火訓練、着衣泳、短艇(カッター)訓練等を。陸上自衛隊では、戦闘訓練、野営、大楠山への行軍などを体験した。「自衛隊の皆さんの日々の訓練の一端を体験したことで、厳しい国防の任にあたる皆さんに対する感謝と敬意の念を強く持った」。
  • 地元の農家で農業体験をした。大根やキャベツの収穫、トラクターの運転等をさせてもらった。「その時にお世話になった農家の皆さんとは、今でも親しくさせていただいている。農家の皆さんの苦労を実感でき、生産者と消費者の考え方の違いを学べた」。
  • 父が引退表明して以降、次期選挙の候補予定者として本格的に活動をスタートさせた。
  • 自分の街頭演説をICレコーダーで録音し、毎回寝る前に聞いていた。また、事務所のスタッフに演説について来てもらって、率直なフィードバックを受けるようにしていた。「世襲批判と自民党批判が重なり、厳しい見方にさらされる中、どうしたら演説を聞いてもらえるか、試行錯誤の日々だった」。
  • 街頭演説では、1人も聞いてくれる人がいない時や「世襲反対!」と叫ばれながら、ペットボトルを投げつけられた時もあった。
  • 「周りのスタッフはそう思っていなかったかもしれないけど、最後の最後まで当選する確信を持てなかった」。
  • 2009年8月、初当選を果たす。「テレビで当確が出た時の率直な感想は、喜びではなかった。支えてくれた方々を裏切る結果ではなくてよかったという安堵感でいっぱいだった」。